引き続き、グランツ立ち上げるまでの軌跡をお送りします
無事に就職も決まった頃
私の母が持病の悪化により入院することになりました
今でもその当時を思い出すと切なくなるの出来事が・・・・・
入院前に髪を切りたいが体がいうことを利かないので私に切ってくれというのです。
家にあった紙切りハサミで切ったけれど、そりゃもう虎刈りという状態
泣けてきました
この時に必ず上手に切れる様になろうと決めた出来事
こんな心を打ちぬく出来事があったにもかかわらず
お気楽主義な私は入社して、自分の甘さにより厳しい世界の洗礼を受けるのです(笑)
入社当日から研修は始まりました。9時-18時で帰る日々が1週間程あり
気分はOLさん(←この気分ゆえ 洗礼を受けるハメに
そして2週目からサロン配属、現場でアシスタント開始
私は床屋さん 他に同期が2名いて二人は美容室配属
新人で且つ資格も無い私達の出来る事といえば
タオル洗濯・床に落ちた毛掃き・チラシ配り(ポスティングとハンティング)で1日が終わっていきます
この営業時間中で過酷だったのはチラシ配りです(笑)
午前と午後で時間制限2時間で、ひたすらチラシを配るのです(1日一万歩は軽く超えてました)
以下に素早く的確に配り、サロンへ戻り 洗濯・先輩のヘルプ・毛掃きをし仕事を覚えることが出来るかをまさに試されました
それと同時に受けた洗礼(←私の甘さゆえ感じた事)
朝練と夜練です
朝は7時集合のみっちり1時間半
夜はサロンが終わり次第集合で、だいたい7時30分~11時位まで
(練習参加はスタイリストが仕事中でも行かせてもらえるので感謝しながら出なくてはダメ)
学生時代の私はたっぷり8時間睡眠が普通だった為 過酷以外の何者でもありませんでした・・・
同期一人は2ヶ月で辞めました。 残った私ともう一人は「頑張ろう」と誓い合います
この生活に慣れ3ヶ月・6ヶ月・1年・1年半・2年・3年・・・・・と過ぎて行きました。
シャンプー・カラーリング・パーマ・ブロー・カット練習と3年間 みっちり
叱咤激励受けながら、会社の試験をパスしてサロンで技術のヘルプに入って行きます
いや~我ながら頑張っていました(笑)
当時は世田谷界隈で一人暮らし、電車に乗れば実家に帰れる距離でしたが
ふと気づくと半年帰ってない何てザラでした。
電話も1ヶ月音信不通で たまにかけると「生きてたの」と言われる有り様
しかし、いざ
辞めたい辞めたいと泣きながら母に電話をすると
母親は「やれる所までやってダメならいつでも辞めなさい」とあっさり言うもので何かが吹っ切れ気づけば続いてましたgood
新人と言われる1年間は、綺麗事では済まされない私のダメさも露呈(笑)
朝練に遅刻はする・練習中にうたた寝・何度も同じことを練習も営業中も叱られ
先輩や店長などから呆れられる程(自業自得 笑)
でも 本社にいる部長だけは、いつも
「おのっち~(←私の旧姓が小野)どうした!いつもみたいに笑って 面白い話するか」と
声を掛けてくれ気持ちをほぐしてくれ 今でも感謝しています
2年目からは後輩も出来ますが、そりゃ厳しい世界でした
続きません すぐ6ヶ月と持たず辞めていきます。
そうすると当時 大嫌い(笑)だった店長からチクチク言われるけれど
「私いじめてないし」とスルー(笑) (←こんな後輩や部下がいたら 私 嫌です・・ww)
そんななか、3年目にして3コ下の後輩Kがやって来るのです。
大嫌いだった店長も寿退社(心の底から喜んだ)
※今思えば、一生懸命育ててくれていたからこそなのですが若かった私は人間の浅い奴でした。
後輩Kは本当に本当にスゴイ子でした 1年目の自分を棚に上げ厳しかった私を一番慕ってくれ
頑張ってくれて自然と姉妹のようになっていきました。
その頃
私の唯一の同期は辞めたい病にかかり
私達は国家試験とサロンでスタイリストデビューも目前という やっと華やかな世界に立てる所で
私の力及ばず辞めていきました。
「私の苦労なんて、あんたには分からない。贔屓されてるんだから」と言われて
贔屓なんてされるどころか、叱られてばかりだったけど
改心して練習に励み 媚を売らず何処の派閥にも属さなかっただけ。
こらえて頑張った私には、その言葉は傷ひとつ付きませんでした。ただ、寂しくなりましたが
理容師・美容師ってたいへ~ん!
社会人てみんな大なり小なり色々ありますよね
でも楽しい人生だなぁと思います
ではお付き合い頂きありがとうございます また次回